五の章  さくら
 (お侍 extra)
 




     料 峭 〜その二



 昔は“自分”さえ持たぬ身で、それが当たり前でもあった。途轍もない悪条件の戦域へ投じられる非情な方針を、恨むどころか喜々として受け入れていたほどで、死んだらどうなるかなんて慮外の空言だったほど、特に不安もないまま、冷静に泰然としていられた。

  そんな頃のことだったと思う。

 大事なもの、好きなもの、守りたいもの。そんなものを抱えると弱みになるぞと言っていた者がいた。それらを守るためにより強くなればいいと言うは容易いが、実行し実現させるのは難しい。

  ・Q ならばどうすればいいか → A 大切なものなぞ持たねばいい

 まだまだ幼く、その身に何の蓄積も持ってはいなかった自分は、あまりに判りやすい道理へ疑いを持つこともなく、それこそそれは素直に倣ったものだったけれど。

 『そんなつや消しな話があるものですか。』

 あの、野伏せりや都との戦さの最中だって、勘兵衛様への凶刃を、ことごとく弾き飛ばしてくださった。あれは…勘兵衛様を自分が斬りたかったからですか? だったら…そうそう。アタシが危なっかしいことをしていると、すぐさま飛んで来て助けてくださった。さぞかし面倒な奴だとお思いだったでしょうけれど、それでも懲りずに何度も手を貸してくださった。アタシのこと、ちょっとくらいは庇いたいって思って下さったからじゃないんですか? 憎からず思う人を持つことが、庇ったり守ったりする手間の分だけ 注意を散らしたり弱みになったり、そうとしかならないだなんて。そんなのあんまりにも乱暴ですし、味気ないじゃあないですか。


 そんな風にこの自分を彼が諭してくれたのは、まだ床上げまでは日がかかりそうだった頃合い、神無村にいた秋口のころではなかったか。その同じ人が、なのに……。

 『勘兵衛様を、どうかよろしくお願いしますね?』

 なんでどうして、七郎次が居残るかもしれないと思うと、こんなにも胸がひしがれてしまうのだろか。無邪気なコマチが、大きな体躯のままの菊千代の方がいいのだと譲らないのは、だが見目にこだわってのこととは違うと知っている。もしかしたなら小さな箱だけとなっていると言われた菊千代の“魂”を、それでもと必死になって焼け野原の中から探そうとした彼女だという話は七郎次から聞いており。機巧躯の成り立ちという小難しい理屈は相変わらずに判らないままだろうに、それでも姿に惚れたわけじゃあないと胸を張っている彼女の心情も、何とはなく久蔵には判る。


 『久蔵様はモモタロさんが一番好きだと思ってましたのに。』

    ―― す き ?


 村が相手の身勝手な欲から焼かれようとしていたの、防いだだけなのに。悪いことをされかけたから、身を護っただけなのに。それに貢献してくれた侍たちがそそくさと去ってゆき、殊に首魁だった勘兵衛は ほとぼりが冷めるまでは表立った場に出ない方がいいなんて。そんなのおかしいとコマチが憤慨したような そんな不条理が、でもだが、実在するのが現実だというのは、さすがに久蔵にも判ってて。理想と現実に開きがあるように、理性では由(よし)ないことと判っている“現状”に、それでも棹差し主張したい望みが 捨て切れずに涌いてしまうように。人の世というものは、様々な思惑が錯綜しているもの。ましてや、七郎次の身の振り方は彼自身が決めること。自分がとやかく指図出来ることじゃあない。平八や五郎兵衛が、自分たちとは同行しないで 一足先にとっとと出立してったのだって、達者でなと見送れたのに。

  ―― どうして?

 七郎次へと接するたび、仄かに感じる微熱と痛みと。冬を越す前からじわじわと、胸に沸いてた わだかまり。それが一向に去らぬままだったのは何故だろか。髪を頬を撫でてくれる、瞳を覗き込んで、こちらの拙い物言いをじっと待っててくれる。どんなに険のある眼差しを向けようと怯みもせず、暖かな懐ろへと掻い込んでくれた.死神とまで呼ばれた自分を“人”として扱ってくれた人。もしかせずとも勘兵衛と同様、戦力として頼りにしてのことでもあろうが、そんな戦さが終わってもなお、家族同然と いたわっての大事にしてくれて。そんな庇護の下、自分もまた血の通う身だと思い出した今、この温みを失うのが 無性に怖い。

  ―― ああそうかと、今 気がついた。

 自分は彼が好きなのだ。だから、道に迷っているのだと。彼の居ない先を思うと、今にも足が止まりそう。大切なものを守り切る自信はある。もっと強くなれというなら なって見せる。だが、それだけでは侭にならないものもあるということか。

  「ど、うして?」

 強さを追うこと以外へは関心も沸かず、何も考えないままに平静でいられたあの頃の方が、強いままでいられたのかなぁ…。





   ◇◇◇



 自分もその身を置いてたあの大戦に生き、苛酷な死線をかいくぐって生き延びた久蔵は、だが。これまでは限りなく刹那的なことしか知らなかった身なればこそ、どうしてと問うのだろうと。それこそ年の差、蓄積の差から、七郎次には重々察することが出来て。

 “…戦さのせいにしちゃあいけないんでしょうかねぇ。”

 あまりに幼く、あまりに無垢だった身であんな地獄へ放り込まれたが故のこと。刀による命のやり取り、生か死かの二者択一しか知らなかったし、そんな生き方のあまりの強烈さへ眸が眩み、他への関心が向かなかった彼であったのだろうこと、想像するのは容易くて。そして、

  ―― それもまた、ある意味で究極の無垢。

 人は失敗に傷つき、穢れもし、そこから抗性を得て少しずつ強くなってゆく。幼いころのささやかな失敗に比して、年を経るほど徐々に徐々に、出来ることの規模が大きくなるがため失態への手痛さが増してゆくのも致し方がなく。それでもそれを乗り越えることで、心が叩かれ強くなる。それが真っ当な成長で、例えるなら、理想と現実、その葛藤に翻弄されていた勝四郎がもがいていたのがそれだろう。そして久蔵もまた、今の今まで知らずにいた葛藤に、戸惑いを覚えている最中で。その手へ刀以外の何も持たないで来たものが、だからこその恐れを知らずにいられたものが。その手から何かを失う不安に揺れている。斬りたくて追って来たはずの勘兵衛に別な執着を見いだし、誰かと共に在ることへの幸いや温みを知り。そして、

 『ど、うして?』

 恐らくはそんな自分と同様、いやさそれ以上に、好きな人、大事な存在なのだろに。なのに、そんな対象から…勘兵衛から離れての、此処に居残ろうとする七郎次なのが、どうにも理解出来ないらしく。

 「何故…。」

 七郎次からもそりゃあ気に入りの、宝石みたいに綺麗な紅の眸が。今は切なげに歪められての たわむばかり。ただ単に、自分への接しようの優しい人が離れてくのが不安だったというだけじゃあなくて。理屈として割り切れなくて飲み込めないこと、どこか不条理なこと。だからこそ、単なるジレンマ以上になかなか割り切れないでいた久蔵だったのでもあろう。

  ―― シチは 共に行かぬのか?

 勘兵衛と再会出来たことが、また一緒に“戦さ場”に立てたことが、夢でなくて良かったと。ああまでホッとしていた七郎次だったじゃないか。

 『夢だったなら、こんなひどいことはないと…』

 技量も器量もそれは優れた侍でありながら、されど彼が自分と大きく違うところは、その 人としてのありようの色合いだろうと思う。侍としての思うところ、矜持と技とのもろともに、すなわち“格”が高い彼でありながら、だが、人と争い、強さを競う“戦さ”が好きなんじゃあなくて。秀でた腕っ節や覚悟のみならず、流動的なあれこれへの対応を即妙にこなせる、臨機応変の冴えも要りような、何とも難しい修羅場だからこそ、そんな途轍もない苦衷をしのいだ末に生き延びたことへ、格別の感慨を覚えるのが戦さ場であり。刀さばきや戦略の成功などなどに酔いしれたい訳じゃあないのだけれど。それらが誰かを助けたこと、大切な人を支えたり役に立ったということが、嬉しくてたまらなかった刷り込みは、そう簡単に消せはしなくて。

 「…。」

 そういう“嬉しい”を原動力にし、そんな陽の力で衝き動かされていた七郎次だったのだろうというのが、今の久蔵にはよく判る。剣技の腕は間違いなくの練達だし、敵の急襲にあっても怯んだり怖じけたりすることなく、そりゃあなめらかに飛び出せていた反射は、ともすれば好戦的なくらいに果敢なそれだったし。勘兵衛の下で身につけたそれか、様々な場合への対応用の袖斗(ひきだし)が多くて、大局を見通すことにも、はたまた局地戦にも通じている。それほどの器量であった彼が…器用で気配りもこなせる性分は生来のものだとしても、それをどこでどう生かすのが一番心地よかったのか、誰のための何を果たせて一番の喜びだったかを覚えていたからこそ。

  ―― 勘兵衛との再会が夢だったのかも知れないとしたなら

 焦がれるあまりの妄執が見せた幻だとしたなら、そんな残酷なことはないと。彼ほど優れた人物でも、彼ほど心豊かな人性をした者でも、その不安をわざわざ口走ったほどに。居ても立ってもいられないほど動揺してしまったのではなかったか?

 「…。」

 そうまでの想いを、なのにどうして果たそうとしないのか。難しいことじゃあないはずだ。勘兵衛について行けばいいだけじゃあないか。蛍屋での安穏とした豊かな暮らしを捨てられない? 見込まれ、慕われている立場にも未練がある? ずっと一人で平気だった、手助けなぞ不要としか思わなかった久蔵のままならば、そこには利便性しか見いだせなかったかもしれない。だが、今は違うからこそ、義理があって離れられないということもあろう、あなたをこそと頼られることの暖かさも振り切るには切ないことだろうと判る。だが…それでも。いつかは逢う機会も巡り来ようと、勘兵衛との再会をこそ、それだけを希望にして当て処なく待っていた七郎次だったろにと思えば やはり。事の順番がおかしくはないかと、そうとしか思えぬ久蔵で。

 『勘兵衛様は、一度交わした約束は絶対に忘れませんよ?』

 いつぞやに、傷の治りが遅いままでは勘兵衛から置き去られるやもと、それはそれは不安がってた久蔵を宥めてくれたのは誰だ。かつて水分けの巫女からの恋情へと示したように、生ぬるい優しさを選ばずそりゃあきっぱりと背中を向けられる男でもあると、非情さを厭わぬ勘兵衛だということへの不安を抱えて、それへ怯えていた久蔵だと。彼にはすぐさま察することが出来たからじゃあなかったか。

 『こんなに焦らされたんだもの。お返しに、う〜んと待たせておやんなさい。』

 慕う人から置き去られること。離れ離れになって逢えない身となること。それがどれほど切なくもつらいか、彼ほど知ってる者はなかろうに、


   ――― な の に、ど う し て ?


 こちらの戸惑いを知ってか知らずか、七郎次の態度はあくまでも穏やかなまま。でも…それこそこちらの勝手な解釈だろか。ちょっぴり下がり気味な優しい双眸や、品のいい口許が、微笑っちゃあいるが…どこか淋しそうな笑み滲ませてて。
「…島田が嫌いになったのか?」
 いささか短絡的な事を訊くと、え?と意外そうなお顔をしてから、
「いいえ。」
 と、軽やかに笑った彼であり。いいところも悪いところも、そのどちらも変わってなかった。以前(むかし)のまんまなお人だったのが、相も変わらずお慕わしいと。ともすりゃ惚気と聞こえそうな言いようをする。そして、
「何も今生の別れってわけじゃあありません。お出掛けになりなさるだけ。必ず此処へ、帰って来て下さるのでしょ?」
 いつの間にか、七郎次の手には いつも久蔵の髪を梳いてやってる柘植の櫛があり。お気に入りの髪、慣れた手がやさしくやさしく撫で下ろす。温かな手をいっときも止めぬまま、やさしく撫で続けていた彼だったけれど。

 「それとも、久蔵殿も此処に居残られますか? そうそう、用心棒として。」

 小窓からさし入るは、黄昏間近い蜜色の陽気。それに染まった脱衣場の、温気の満ちた空間に、ことりと、将棋の駒でもおくように告げられた くっきりとした一言へ、

 「…っ。」

 それは鮮やかな反応で、はっとしたそのまま美麗な細おもてが堅くこわばったのを。細い肩がひくりと震えたのを。だが、七郎次の側はさして驚きもせずに受け止める。それから、そんな素振りを示した久蔵より先に、ゆるゆるとかぶりを振って見せ、
「冗談ですよ。」
 やわらかな声音で宥めてやって。それから、
「アタシは此処に5年いた。ええそうです、勘兵衛様を待っていた。生きてりゃ いつか逢えると思ってね。」
 でもねぇ、と、吐息をつくように付け足して。アタシも年を取ったということでしょうかねぇと、そんな言いようが自分でも可笑しかったか口許だけをほころばせ、

 「待つのがね、怖くなって来たんです。」

 期待した通りにならなかったらと思うと恐ろしい。幸運だけを信じてられない。それに、此処に居る間に大切なものもたんと出来た。沢山の人に支えてもらって、この頃じゃあ ちっとだが頼りにもされて。身寄りもないまま、何にも持ってなかったはずが、気がついたらそんな…居場所みたいなものが出来ていた。だからでしょうかね、お二人が発つのなら、じゃあアタシは居残ろうって想いが自然に出て来た。そんな風に淡々と連ねてから、

 「ねえ。久蔵殿は、勘兵衛様とアタシと、
  どっちかとしか居られないとしたら…なんて、考えたことがありますか?」

 あんまりにも滸がましいことだから、アタシも例えばとしてでさえ言わなかったことだけれど、と。それでも…冗談ごとですよと仄めかすよに、くすくすと笑いながら言い出して。
「考えたこともないでしょう? というか、久蔵殿は勘兵衛様とともに行くことしか考えてはない。それへとどうしてアタシがついて来ないのか、勘兵衛様の傍に…自分たちと一緒に居てくれないのかってことしか思ってなかったでしょ?」
「…。」
 責めるような口調じゃあない。なのに、何だか無理から紡がれているようにも聞こえてならない。心に伏せられていた想い、わざわざ言わなかっただけで抱えてはいた想い。大人だから言わずとも我慢出来てたことを、でも、言わなきゃ納得しそうにない久蔵だからとさらけ出してくれたのか。
「アタシが言ったんですものね。置いてかれるなんて馬鹿なこと、案じてどうしますかって。でも、」
 やはり、久蔵の快癒の遅さへのジレンマを宥めたこと、ちゃんと覚えていた彼であり。柔らかな笑顔で紡いでのそれから、

 「アタシは存外、我儘で欲が深くて。
  久蔵殿が勘兵衛様の楯になるためにって、アタシを放り出してっても。
  逆に 勘兵衛様よりも頼りなかろうと推し量り、アタシを庇ってくれたとしても。
  どっちであれ、嬉しいことな反面、寂しいと思わなくてはいられない。」

 どっちも大好きでどっちも大事。それでも敢えて選ばねばならぬならと、そんな条件があってのことだと判っていても。ついのこととて、そんな風にひねた考え方をしてしまうやも。自分がそんな性分だってこともよくよく知っているし、勘兵衛様へもね、狡いお人だ憎らしいお人だって、言葉の上でだけじゃあない、腹の底から嫌ったことだって幾度も幾度もありました。大戦中に勝手をなさって胸を裂かれるような想いを山ほど味あわされもしましたし、此処で待ってた間だって、いっそ忘れてしまやせいせいするのにと、一体何度 呪いたくなったことか。

 「そういう恨みがましい刷り込みを、
  もしかして…久蔵殿へまで ちっとでも思うようになるのは辛いです。」

 …そう、と。櫛を操る手が止まり、青玻璃の双眸がわずかに陰って。

  「いつか、お二人のことを恨めしいと思うかもしれないのが、アタシはこわい。」
  「…っ。」

 お二人が互いを認め合い、想い合っておいでなことは重々承知しておりますし、それを喜んでもおります。そんなお二人を、両方ともいつまでも大事にしたいなら。
「アタシはね、お二人の帰る処になるんでさ。」
「……帰る処?」
 ええ、と。深々頷いたその人は、そこまでしか言わなんだけど。いつでも戻って来ていい処、そして…まだ大丈夫、まだ帰れぬと自らを励ます処に。彼らにとってのそんな処に自分はなりたいのだと言う彼であり。

 「……シチ。」
 「はい。」

 何言われようとその眸は揺るがぬのだろうか。いやさ、

 「シチを一番に想っておれば、共に居残れもしよう、島田を引き留めも出来ように。」

   ―― それを思いもせなんだ俺が 憎いか?

 真っ直ぐな視線 揺るがさず。そんな訊きようをした久蔵へ、だがやはり 七郎次は何度も何度もかぶりを振った。
「いいえ、いいえ。こんなにも愛しいお人なんて、アタシには数えるほどしかおりませぬ。」
 弟みたいに可愛いと、思えてやまない大好きなお人。だっていうのに、酷な言いようをして久蔵殿を困らせているのが、アタシにも辛い。でも、

 「勘兵衛様もお慕いしている、久蔵殿のことも好き。そんな欲深なアタシが悪い。」

 一番を二つは選べない、全部を望むことは叶わない。それでも無理を通してのこと、ご両人をいつまでも大事にしたいなら、双方を一番好きでいたいなら。

 「これはそう、アタシの我儘です。」
 「…シチ。」

 拒まれたんじゃないと、それが判る。察することが出来なかった拙さを責められたんでも叱られたんでもないことも。二人とも大切にしたいと、だから、自分が居残るのですよと。ホントは秘していたかったことを…言いたかなかっただろことまで、言わせた自分の幼さと、そうしてまでという七郎次のどこまでも深い優しさが胸に切ない。

 “ああ、そうか…。”

 自分は七郎次が好きなのだと気がついた。これが人を好きになるということだと。そして、勘兵衛へと向けていた想いもこれだったのだと。
「…。」
 単なる固執だと思っていた。決着をつけるという約束をした相手であり、勘兵衛は約束を忘れたり破ったりはしないと言われたことで落ち着いてしまい、それ以上を取り沙汰しなかった。けれど…ここに居残るという選択もあると言われて、一瞬ながら総毛立ちそうになったほど、あの時と同じ、得も言われぬ心細さに襲われたのは。勘兵衛から引き離されることへの恐れが掻き立てられたからに他ならず。

 「…すまぬ。」
 「どうして謝りますか。」

 だって謝るしかないのだもの。どれほどのこと足らぬところの多かりし自分かが判ったのだから。道を求めて侍になったのではなく、侍としてでしかいられぬ未熟な自分。斬るか斬られるか、要るか要らぬか。年端のゆかぬ童児のように、二つに一つしか選べぬほどの狭量なままであり。そんなだからと先に気づいて、ではと…どちらも選ばぬ立場を取ってくれた七郎次なのだと、今の今、ようやく判った久蔵で。肩を背中を、やさしくやさしく撫でてくれる手のまろやかな温み。懐ろの甘い匂いにこっそりひそむ、そりゃあ誠実な頼もしさ。

 “……しち。”

 何も知らなかったし、それでいいのですよと庇われていたこと、今になって気がついた。生死も判らぬままに別れた御主が、恨めしい、でも慕わしい。あまりに曖昧で、だから切なくて辛い。そんな望みにすがることで生を継いで来た彼であり、ずっと長らく待ってた分も含め、あの勘兵衛から大切にしてもらわなきゃいけないのも、うんと幸せにしてもらわなきゃいけないのも むしろ彼の方であるはずだろに。そんな人とのやっとの再会という、これ以上はない喜悦さえ、すぐさま…誰か よそ人の幸いのためにと潰えさせてもいいとする。そんな器量の広さとそれから。強情にも同情にも流されない、正しいと信じたこと、そこからこうと決めたこと、こうまで貫き通せる強さ。ああ、自分なんかじゃあ、到底太刀打ち出来ぬと思い知らされた。

 「…。」

 大好きな人とただ一緒に居たいと、そんな駄々を捏ねるだろう自分を拒絶出来ずに、あなたはずっと困っていたんでしょうね。嫌い合ってなんかない、憎み合ってなんかない。なのになのに、胸が痛くて辛い。どこにも怪我なんてしちゃあないのに、胸が喉が痛くて辛い。眸の奥が熱くなって来て、鼻の奥がぐうと締めつけられている。

  ――― はたり、と。

 頬に添えられていた七郎次の手元、羽織の袖口に、何かが当たった音がして。糊の効いたところにぽたりと落ちたそれは、地の紫を濃く濡らした水滴で。あれあれまだ乾いてないところがあったのかななんて、ぼんやりと見やった久蔵の、髪から落ちたものなんかじゃあ勿論なくて。

 「…久蔵殿。」

 目許の間際をそおっとそおっと、七郎次の綺麗な指が拭う。え?え?と瞬けば、それに合わせて睫毛に重みが増してゆき、頬へと細かいしずくがはねる。

  ……… 涙?

 一緒に行けないと言われたからあふれたそれじゃあない。辛い選択をし、それをわざわざ説いて聞かせた優しい人。大好きな人を、こんなにも困らせたことへと胸が痛くてのそれで。傷口からしたたる血の代わり、気持ちに怪我をするとこうなると、これもまた初めて知らされた。


  …すまぬ。
  また。どうして謝りますか。
  シチ、も、泣いてる。
  アタシは昔っから、結構 泣くクチだったんですよっ。
  でも。
  アタシのは半分ほど、嬉しいの涙です。
  嬉しい?
  ええ。久蔵殿ほどのお人から、こうまで想われたんですもの。
  ………。/////////


 何にも欲しがらなかったお人から、こうまで望まれたのが嬉しいと。選りにも選ってなんてところから持ち上げる人か。いつの間にやら同じくらいの涙顔となった同士。相手の温みを胸へと抱いて、他へは得難い愛しさと切なさ、しみじみ噛み締めてしまった、小春の夕暮れどきだった。




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  *あああ、こんなしんみりしたお話を
   クリスマスイブに綴るのもどうかですよね。
(苦笑)
   さあ、あとは終章が待っております。もうちょっとだけお付き合いのほどを。


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